発酵学研究の第一人者である小泉武夫先生が登場。小泉先生が推進役となり、2013年12月に「和食」が、2024年12月には麹菌を使った日本の「伝統的酒造り」がユネスコ無形文化遺産への登録を果たしました。そもそも「発酵」って何でしょう。日本の食と発酵の関係、発酵食品の特徴などについて解説していただきます。
⇒後編「日本の食文化も酒文化も大半は麹菌からの恩恵を受けたもの」
解説者: 東京農業大学名誉教授 小泉 武夫
取材・文:藤田千恵子 / 写真:三井公一 / 構成:Contentsbrain
日本は世界一の発酵王国です。日本には大根の漬け物だけでも約90種類、全国におよそ2,000種類もの漬け物が存在します。例えば、ヨーロッパで漬け物というと、ザワークラウトとピクルスは有名だと思いますが、ほかはあまり聞かないですよね。
ところが日本には気候風土的にも地理的にも発酵の条件がそろっていて、発酵のための優秀な微生物がたくさんいる。一つ一つの酒蔵や味噌や醤油(しょうゆ)の蔵に家付きの酵母がいたり、乳酸菌がいたりするわけです。そんな微生物によってできた食物を日本人は2千年近くもの間食べてきた。そういう発酵との長い歴史、深い関わりがあるという意味で、日本の発酵はすごい世界なんです。それをもっと広めないといけないと思いました。
ユネスコ無形文化遺産にも登録されている、「和食(Washoku)」⋆¹をご存じですか。日本の伝統的な食文化であり、「一汁一菜(いちじゅういっさい)」が原点となります。
一汁一菜は御飯と味噌汁とおかずというシンプルな食事スタイルですが、この中に発酵食品が2つ入っている。味噌汁の味噌、それとおかずとしての漬け物です。もしも発酵食品が存在しなかったら、日本の食は成り立たなかったと思います。醤油がなかったらお刺身は物足りないし、和食の煮物には味醂(みりん)が必要だし、酢の物には米酢も使う。もちろん本格焼酎や日本酒も発酵によりつくられる。日本の食は発酵がないと成立しないのです。
一汁一菜の例(御飯、豆腐と油揚げの味噌汁、漬け物)
⋆¹ 和食:日本の気候や風土の中で育まれてきた伝統的な食文化。2013年12月に、「和食:日本人の伝統的な食文化(Washoku: Traditional Dietary Cultures of the Japanese, notably for the celebration of New Year)」がユネスコ無形文化遺産に登録された。
東京農業大学名誉教授の小泉武夫さん
発酵食品には次のような5つの特徴があります。
1つは、発酵させると腐りにくくなるということ。これは非常に不思議なことです。発酵と腐敗との区別は、「発酵は人間の役に立つもの。腐敗は役に立たないもの」ということです。腐敗は死の世界、病気の世界。人間が生きる上で役立つものをつくってくれるものが発酵です。
例えば、牛乳を器に入れて真夏に一晩置いておいたら腐っちゃう。それを飲んだら食中毒になって大変なことになってしまう。それが腐敗。逆に乳酸菌を入れれば、ヨーグルトになって腐りにくくなり、それが発酵。自然に防腐と保存の役割を果たしてくれます。
発酵したものは腐りにくい。それはなぜかというと、発酵を促す微生物である菌や酵母は、アンチバイオティクスという他の細菌などの侵入阻止物質を造るからなんですよ。要するに、自分の陣地で一定の数を占めてしまい、他の菌を自分の陣地に侵入させにくくする。発酵の過程を経ると、熟成はしても腐敗はしないんですね。
発酵食品の2つ目の特徴は、発酵させると非常に栄養価が高まるということです。例えば、大豆そのものと、大豆に納豆菌を増殖させた納豆⋆²とでは、スタミナ源のアミノ酸が130倍ぐらい違うんですよ。そして、非常に美味しいものにもなる。美味しくなる理由は、発酵菌の力で大豆のたんぱく質が分解されて、うまみの素と活力の素のアミノ酸になるからです。
⋆² 納豆:蒸した大豆に納豆菌を加えてつくる日本の代表的な発酵食品。独特の匂いと粘って糸を引くのが特徴。
それから、食物が発酵するとビタミンも増やしてくれる。ペプチドなども増えますね。人の身体にとって良いものがいっぱい増えてくるんです。あと、発酵食品と普通の食品の一番の違いは、発酵菌という生命体が人の身体の中に入ってくるということ。そこがほかの食べ物とはまったく違います。つまり、発酵食品は生きている食べ物のようなものです。
例えば、ヨーグルトをスプーンで1杯食べれば、乳酸菌という生命体が何億と身体に入ってくるわけです。菌体そのものがパーッと入ってくる。そして、発酵食品以外の食べ物にはなかなかない特徴です。
そして発酵食品の3つ目の特徴は、匂いと味が元々のものとはまったく違うものになるということです。牛乳とチーズは全然違う。大豆と納豆も違う。発酵というと個性的な香りに変化するイメージがあるかもしれませんが、必ずしもそうではなくて。発酵したパン種なんていい匂いですし、米と米麹の原料をもとに発酵させる日本酒の中でとりわけ吟醸酒などはフルーティーな香りがしますよね。うまみも発酵するとがぜん増えるのです。
4つ目は、発酵食品が究極の自然食品であるということ。添加物が一切なくてもうまみはあるし、保存も利くので、そのまま食べることができます。
5つ目の特徴は文化性、歴史性というものです。これが、非常に深い。さまざまな地域に、古くからの歴史を持つ伝統的な発酵食品が存在しているわけですからね。ですから私は、発酵にまつわるこれらの素晴らしい情報を皆さんにお知らせしようと発信してきたのです。
⇒後編「日本の食文化も酒文化も大半は麹菌からの恩恵を受けたもの」
PROFILE: 小泉武夫(こいずみ・たけお)
1943年、福島県の酒造家に生まれる。東京農業大学名誉教授。農学博士。発酵学者、食文化論者、文筆家。専門は食文化論、発酵学、醸造学。鹿児島大学、福島大学、別府大学、石川県立大学、宮城大学ほかの客員教授も務める。発酵に関する著書は単著だけで150冊にのぼる。また、発酵のまちづくり全国ネットワーク協議会会長、「和食」文化保護・継承国民会議委員などを歴任。2024年12月、麹菌を使った日本の「伝統的酒造り」のユネスコ無形文化遺産への登録で推進プロジェクトの座長として活躍。食に関わる様々な活動を展開し、発酵の魅力を国内外に広く伝えている。