百瀬ジュリアさんは日本で生まれ高校卒業まで日本で育ち、大学入学を機に渡米されました。彼女のバーテンディングの美しさは世界でもピカイチです。笑顔を絶やさぬ温かな接客、料理に合わせてお客様一人一人にマッチしたカクテルなどのドリンクを提供する独自のスタイル、本格焼酎や日本酒に関する造詣も深く、お客様のお酒に関する疑問にも的確に答えてくれます。シカゴのBar「kumiko」が「The World's 50 Best Bars」上位に選出され、「TIME」誌の「World's Greatest Places」、「Esquire」誌「The Best Bars in America」に取り上げられるのも頷けます。ジュリアさんがバーテンダーを志したきっかけ、Bar「kumiko」で表現する世界感などを前編と後編に分けてご紹介します。
⇒後編「スタッフのウェルビーイングが一番大事。それでこそより良い接客ができるのです」
文:鈴木昭 / 写真:三井公一 / 構成:Contentsbrain
取材場所:「Bar TANNEL」(大分県別府市北浜1-12-2)
知人と一緒に入った京都の祇園のバーで、バーテンダーの繊細で美しい動きに魅了されました。一つ一つの動きに流れがあり、優雅な手捌きで美味しいものを作る姿はまるでバレエダンスのようで。そのときのことが、鮮明に記憶に残りました。その経験を通じて、いつか私も誰かのために、そんな優雅なひとときを届けられたらいいなと思いました。
いえ、その時はまだ学生で、アメリカの大学に進学すると決めていました。大学卒業後は日本に戻って働くつもりだったので、帰国した際に良い仕事に就けるようにしたくて選んだのがコーネル大学でした。
結構勉強はしましたよ。入試では論文が重視されていました。私の苗字は百瀬といい、生まれも育ちも日本ですが、父がアメリカ人と日本人のハーフ、母は日本人で、私はクオーターの日本人です。顔は日本人ぽくないですけれど、考え方や心は日本人だと思っています。この顔で日本で生活していく。その気持ちを掘り下げて考えて、論文のテーマにしました。何かに所属することとか、外面的なものと中身とは一緒ではない、といったことをまとめて書いて、なんとか合格することができました。
専攻はDEA(Design and Environmental Analysis)というコースです。日本ならインテリアデザイン専攻に近いかな。キャンパスはニューヨーク州の北部、Ithaca(イサカ)という街にあり、豊かな自然に囲まれた美しい場所です。アメリカの私立大学の学費はとても高いので、アルバイトすることは覚悟していました。そのときに思い浮かんだのが京都のバーの光景。アルバイトはバーテンダーの仕事をしたいと思いました。
ところが、アルバイト先に見つけたバーは、女性、あるいは彼らの言葉で言うなら、“女子大生”をバーテンダーとしては雇わない、という基本的なポリシーがありました。マネージャーはイサカ生まれのイサカ育ち。自分のバーを守るという気持ちが強かったのでしょう。また、スタッフのほとんどが地元の人だったので、素人の女子大生をバーテンダーとしては雇いたくなかったのだと思います。
彼女(マネージャー)の方針に疑問を抱くことはありませんでしたが、とにかく自分の力を試すチャンスがほしいと思いました。まずは(ホールの)ホストやサーバー、カクテルサーバー、そしてバーバックとして働きました。カクテルについて学び、常連さんとも親しくなっていき、働き始めてから半年以上経ったある日、マネージャーが、土曜日のブランチのバーテンダーのシフトに入ることを許可してくれたんです。本当にうれしかった。その後は、(バーテンダーとして)シフトに入る機会も増え、さらに学ぶことができました。
私にとって、自分の力を証明することはとても大切でした。きっと、お店では過去にあまり良くない経験があって、そうした方針にしていたのだと思います。今でもその店はあります。「Rulloff’s」というバーです。ここで人との接し方、素早く動く身のこなし方などを学びました。
「Rulloff’s」の他に、大学の「コーネルcatering」のサービスとして、投資家主催のパーティーや同窓会などでも働きました。こうしたイベントはキャンパスのいたるところで、あるいは一部の個人宅などでも催されていました。
そういった集まりの場ではスタンダードカクテルが人気だったので、YouTubeなどで動画を見ながら一人で何度も練習しました。自宅にカクテルのセットを用意しての独学です。日本のバーテンダーの大会の動画などはとても参考になりました。それからクラシックバレエの動画もよく見ました。京都のバーで感じたように、バーテンダーの動きはバレエダンサーに似ていて強くて優雅だと思いました。
実は私、大学を3年で自主退学したんです。大学に入学してから、友達が立て続けに亡くなるという出来事がありました。原因は病気や自殺でした。心が痛くて痛くて。バーで働いている最中にも心が痛くて、お客さんとのコミュニケーションを取ることもつらくなり。もうここにはいられないという気持ちになりました。何をしていても思い出してしまうのです。
それで一度、実家に戻って気持ちを立て直そうと思い、休学届けを出して帰国しました。その時点ではまた大学に戻り、卒業しようと思っていました。結局復学せず、職業としてバーの世界に本格的に進むことになったのですけれどね。
すごく心配してくれはって(編集部注:ここは、京都弁になりました)。父も母もとても優しい人です。いつも私のことを心配してくれている気がします。それだけに申し訳ないという気持ちも強かった。
私は大学で学ぶデザインの勉強も好きでしたが、いつかは自分のバーを開きたいと考えていました。日本に帰ったとき、友達とたまたま訪れた神戸のバーの印象が大きかったと思います。そのお店では、オーナーバーテンダーが全ての仕事を一人でこなしていました。内装デザインもご自分でなさったそうです。
彼はひとつのカクテルのために、四角い氷を丁寧に削って丸氷を作っていました。どんなにシンプルなハイボールでもラムコークであっても丸氷を一つ一つ丁寧に作っていた。お客さんのために一番いいものを出したい、という気持ちが伝わってきました。
その姿を見ていて、私も自分のバーを開く時は自らの手で内装のデザインをして、接客も一人で丁寧に行いたい。一つ一つの小さなことの積み重ねが大切だと感じました。そんな自分なりのお店のイメージが出来上がりました。その時に決意しました。「私は30歳になるまでにそれを実現するぞ」って
その後アメリカに戻り、大学で退学の手続きをしてから、ボルチモアに向かいました。最初に働いたお店はファミリー向けのカフェバーレストランで、バーコーナーではシンプルなカクテルが中心で、凝ったカクテルを出すようなお店ではありませんでした。
その頃、友達に「RYE of Baltimore」というカクテルバーに連れて行ってもらったのですが、とてもこだわりを感じる、雰囲気のいいお店で気に入りました。ある日、「RYE」のオーナーが私の働いていた店に来てくれて、私は彼のためにいろいろなカクテルを作ったことがあったのですが、その後、彼から「RYE」で働かないかと誘われて、その縁で働かせてもらうことになりました。
「RYE」はマンハッタンやサゼラック(Sazerac)といったオールドファッションなスタンダードカクテルが中心のお店でしたが、フルーツカクテルなど新しいカクテルも出していました。近所のレストランのシェフやバーテンダーもちょくちょく来るお店でした。私は彼らの2店舗目のオープンを手伝い、そこで自分のレシピに対してよりクリエイティブに取り組むことになりました。
ある日、シェフがキッチンから色々な材料を持ってきて、これでカクテルづくりにチャレンジしようと言い出して、私は焼き芋も試してみました。塩をかけて焼いたら、芋の中にある糖分が出てきて、キャラメルのような味になりました。それをバーボンに入れて、味をつけて、「オールドファッションド」を作ってみたら、それがお店で人気のカクテルになったんです。
このカクテルのレシピは、私の書いた書籍「The Way of the Cocktail」⋆¹にも載せました。「Yaki-imo Old Fashioned」と名付けたカクテルです。
⋆¹ 「The Way of the Cocktail: Japanese Traditions, Techniques, and Recipes」(共著:Julia Momosé、Emma Janzen、出版社:Clarkson Potter、発行:2021年11月9日)
ある日、友達が、「Julia, you should go some more bigger.」(もっと大きな都市に行きなさい)とアドバイスしてくれたんです。NYでもLAでもサンフランシスコでもいいから、ボルチモアにとどまらないで、大きな都市に行くべきだって。それで心を決めて2013年にシカゴへ行くことにしました。そこで働くことになったのが「The Aviary」です。
シカゴは大きな街だけど、その中に小さな町がある感じです。シカゴの人はとても優しい。彼らは厳しい冬を耐え抜いて、夏が訪れるとその喜びを存分に祝うとても勤勉な人々でもあります。少しの間ならこの街に住めるかもしれないと感じました。
この頃、自分の人生の長期プランを立てたんですよ。シカゴの次はサンフランシスコに行き、それからシンガポールに行こうと。シンガポールは面白いバーが次々にオープンしていますから。それにシンガポールなら距離的にも日本に帰りやすいかなって。でもシカゴに来てもう12年、いまだにシカゴにいますけれどね(笑)。
「The Aviary」でバーチーフとして2013年から2015年まで2年間働き、その後、「Green River」という、NYの「The Dead Rabbit」とダニー・マイヤーさんのコラボのレストランで働きました。レストラン向けのカクテルメニューがたくさんある面白いバーで、そこのオープニング・バーテンダーとしてカクテルメニューのレシピを書きました。
2017年からは「Oriole」でスピリットフリーのペアリングを作ったり、カクテルのメニューを書いたりと、バーコンサルタントとしても働き始めました。それから間もなくして、シェフのノア・サンドバル(Noah Sandoval)が一緒にバーを開こうと誘ってくれて、Bar「kumiko」を開くことを決めました。シカゴ市内のウエストループ(West loop)と呼ばれる飲食店が多く集まる地区です。お店をオープンするまでは「Oriole」の仕事のほか、「STARBUCKS RESERVE® ROASTERY」の5店舗(シアトル、イタリア・ミラノ、東京・中目黒、シカゴ、NY)のドリンクメニューのレシピも書いたりしていました。